p5・6 3 内々神社 1 <『さいお』春日井市立西尾小学校開校100周年記念ハンドブック>

 内々神社の名前が出てくる、もっとも古い確実な史料が『延喜式巻第九』(927年)、いわゆる<延喜式神名帳>て、「尾張国春部郡内内神社」とあの平安時代ににすてに官社(式内社と言う)とされていた大変古い神社ということになります。.

創建について、『春日井市史』を見ると、吉見幸和の『妙見由緒書』があげられ.景行天皇41年に、尾張の祖、建稲種命を奉ったことに始まるとしています。これに熱田神宮創建よりも9年早いそうで、内々神社は建稲種命を奉った最古の神社ということになります。

 内々神社の宮司である梶田忠男さんから『式内 内々神社縁起書 壱巻』を見せていただきました。これは、宮司(当時は社司と言いました)と氏子の総代人の計4人が、坂下村を通じて東春日井郡役所に提出していた公文書です。(坂下村役場 大正111023日、第1105) (愛知縣東春日井郡所 大正11 1024日受)

 そのなかの「内々神社本記」が次のように紹介しています。<『熱田記』(尾張連清稲、貞観16年)に日本武尊が尾張に帰り、篠木に到着して食事をしていると、久米八腹が馬を走らせてきて建稲種命が海に落ちて亡くなったと報告し、日本武尊はこれを聞き、悲しんで泣いて「現哉現哉(うつつかなうつつかな)」と言ったので、内々神社というようになった、という話が載っている。>

また、 (『式内 内々神社縁起書 壱巻』の中の)「内々神社御由緒」には次のような話が紹介されています。

く天正12年に土岐郡妻木城主伝入と可児郡蒹山城主森右近の両軍が放火したために炎焼してしまった。そのため、仮の社殿であったところ、慶長2年に豊臣秀吉が朝鮮出兵の時に、勝利を祈願して杉の大木を7本伐採して帆柱として使用した。その後、お礼として社殿を造営することになった。また、慶長18年には、妻木雅楽助源家預(伝入)が放火したことを詫びて鐘楼を建設した。享和3年にに、名工と呼ばれた立川和四郎に社殿を改造させたので、今の社殿となっている。

 続いて、次のような話も載っていますので紹介します。

<日本武尊が「現哉現哉」と言ったのてこの地をウツツと言うようになり、すぐに榊を建て祭ったところ、そこに建稲盟命が亀に乗って日本武尊の前の岩の上(現在の奥の院の巌の岩の上)に現れた。後日、景行天皇の勅命によって今の地に社殿が建てられたという。建稲種命は潮と共に来たためか、岩屋社、俗に言う奥の院の岩の上に塩水が出る。内津を去り、悲しんだところの岩に馬の蹄の跡をつけた。今、西尾村字駒返りと言う。それより道を踏み違えたところを熱田坂と言い、ここにも馬の蹄のついた岩がある。日が暮れ、野営をしたところを神家と言う。

 今、神屋村字御手洗というのはこれである。翌朝、朝日が差してくる方を明知と言い、今、明知村と言う。内々神社が開かれたころは人里がなかった。近くに開かれた村はすへて内津からの方位の名称である。西の方だから西尾村。東の方だから東小木村。北の方だから北小木村。南は有名な内津山の外になる里であるので外之原村てある。二の神門は今、鳥居松の地である。>

 ちなみに、「尾張志」では、一の神門は、西尾村との境にあったとしています。

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 日本武尊は、『日本書紀』『古事記』に登場する人物として有名ですか.実在の人物でなく、伝説上の人物とされています。景行天皇の皇子で、仲哀天皇の父です。彼に由来する地は各地にあり、熱田神宮の「草薙の剣」も彼に由来します。